巨大建築をいかに語るか

和田隆介
Feb 11, 2019

巨大建築をいかに語りうるか。これが今回のテーマのひとつでもあるわけだが、そもそも、これまで巨大建築はどのように語られてきたのかを確認するためにも、1970年代半ばに『新建築』誌上で繰り広げられた「巨大建築論争」を振り返ってみたい。

巨大建築に向けた神代雄一郎の抗議

巨大建築論争は、1974年『新建築』9月号に掲載された神代雄一郎による「巨大建築に抗議する」に端を発する。神代によるそもそもの主張は、当時の東京で急増していた巨大建築(超高層ビル)にたいして、それらは人間が集まるための建築として適切な規模をはるかに超えており、かつそれらにおける非人間的なデザインも看過できないとし、小規模の「いい建築」と大規模の「いやな建築」の2極化の進行を指摘するものだった。具体的に批判対象とされたのは、「NHKホール」(日建設計、1972)「新宿三井ビル」(日本設計、1974)、「住友ビル」(日建設計、1974)「最高裁判所」(岡田新一、1974)で、逆に評価されたのは「東京海上ビル」(前川國男、1974)「ノア・ビル」(白井晟一、1974)「倉敷アイビースクエア」(浦辺鎮太郎、1974)「丸亀武道館」(大江宏、1973)瀬戸内海歴史民俗資料館(山本忠志、1973)などだった。さらに神代は、巨大建築を担う組織事務所の構成員たちは概ね当時40代かそれ以下で、小さな良作を担う建築家は50代以降のベテランであることも指摘し、50歳前後でラインを引いた世代論も持ち込んでいる。
冷静に内容だけをみればまったく炎上案件ではないように思われるが、批評の内容というよりはむしろ、神代の挑発的な書きぶりに対して組織事務所側から反感が高まり、燃え上がっていってしまう。この後、反論側の矛先が特に集中していく「象徴的な記述」について、前後を含めて引用しておこう。

これ[東京海上ビル]に対して、新宿の3角ビル[住友ビル]は、表面の凸凹が浅いから、リズムが構成されない。もうひとつのほう[新宿三井ビル]の青いガラスは、せいぜい「青い背広に心も軽く」といった、うらぶれた流行歌を思い出させるぐらい安手だし、露出したタスキがけの骨組は、シカゴの裏街の新しい安物ビルを思わせる。

神代雄一郎「巨大建築に抗議する」(『新建築』1974年9月号181頁)

前川國男による「東京海上ビル」の焼きもの[★1]をつかった凸凹陰影のあるファサードを評価した後につづく「住友ビル」および「新宿三井ビル」への批判であるが、ここでの「青いガラス」が後に火種となり、神代は強烈な反撃を受けることになる。

★1 — — 神代は原稿内で執拗に「もの」にルビをふっており、ものとしての建築を重視しながら巨大建築における素材感の希薄さや非人間性にも警鐘を鳴らしている。

青いガラス — — 組織設計事務所からの反論

組織設計事務所側からの反論は、半年後の郭茂林「青いガラス」(『新建築』1975年3月号)、林昌二「その社会が建築を創る」(同誌1975年4月号)、池田武邦「建築評論の視点を問う」(同)とつづく。
先陣を切った郭による「青いガラス」は、神代による青いガラスの記述が勘違いによるものであると暴くものだった。原稿の掲載時期から執筆時期を逆算すると、当時はまだミラーガラスに青い養生シートが貼られていた時期であり、他にも青いガラスと勘違いした素人がいたことも挙げながら、「プロの評論氏が、そのまま青いガラスとして論評するとは思いもよらなかった」と、なかば冷笑的にまとめている。この郭による切り返しが鮮やかだったからか、以降、青いガラスが論争全体のシンボルになってしまい、生産的な議論を難しくしたばかりか、互いの真意すらも隠されてしまったきらいがある。青いガラスが神代の勘違いによるものだったかどうかも、本当のところは今となっては分からない。ミラーガラスが空を映せば青く見えるだろうし、そもそも神代が問題にしたのは青さではなく、観念的で非人間的なデザインについてだった。

根本的にすれちがう

青いガラスは横において、議論の内容自体をみていきたい。神代の抗議の要点は、大きくは以下の2つである。

① 建築の適切な規模(コミュニティを育成する小規模建築に建築家は関わるべき)
② 巨大建築のデザインの質的低下(観念的で非人間的なデザイン)

これらについてもっとも丁寧に応答したのが、林昌二「その社会が建築を創る」だ。①に対して林は、当時の過密社会においては巨大建築こそが社会の要請であり、それに応えることがプロの設計集団としての社会的責務であって、「佳作は小品のうちにあると矮小化される」ことは本末転倒であるとしている。
②に対しては、「東京海上ビル」の煉瓦タイルの質感は好きなものとしながらも、高層ビルにそれを適用する姿勢については疑問を呈し、超高層ビルへの解答としてはあり得ないとしている。これについては郭も、自社ビルである「東京海上ビル」の特殊性と、貸ビルである「新宿三井ビル」の一般性は同列には論じられないと指摘している。
こうした反論側の主張内容はそれぞれ理解できるものの、神代の主張とは根本的にすれちがっているように思われる。神代が問題にしたのは巨大さとそのデザインであったはずだが、反論側は総じて、巨大さはもはや前提であり、そこでのデザイン条件は技術的にもマネジメント的にも高度に複雑化しているのだから、表面だけを見た印象批評はやめてほしい、というものだった。しかし、巨大建築が建ち上がるまでの複雑な条件やプロセスを、批評家が完全に理解したうえで正確に評論することなど可能だろうか。このすれちがいはむしろ、超高層ビルを批評すること自体の難しさや、既存の建築評論の限界を示してしまっている。
林は「その社会が建築を創る」の末尾おいて、そうした建築評論の困難について指摘しつつ、しかしその必要性を解いて結びとしている。

建築家は建築を通じてすべてを語りつくし、批評家はたとえ困難でも建築を全的に理解し批評するという、相互の厳しい関係が成り立ち、創造的な建築と、批評とによって世の中の役に立っていくことを望みます。もし建築の評価が、同種の仕事に携わっている建築家以外には行えなくなる状態となれば、本来の批評の機能を停止してしまいます。それは、建築家にとって悲しいことであるだけでなく、その社会にとっても不幸なことなのですから。

林昌二「その社会が建築を創る」(『新建築』1975年4月号142頁)

組織設計事務所の建築家としての主体性

巨大建築論争はその後、神代からの再応答「裁判の季節」(『新建築』1976年5月号)のあと、村松貞次郎による「部数の季節」(同誌1976年8月号)にて終幕となる。ここでは神代の「裁判の季節」から論点を抽出して、本題である「渋谷ストリーム」につなげていきたい。

「裁判の季節」で神代は、I・M・ペイ設計の「ジョン・ハンコック・ビル」(1971–76)でのガラス落下事故を例にとりながら、資本原理に取り込まれた巨大建築の先には裁判が待っているとして、そこに無批判に動員されていった組織設計事務所を再度批判する。そして、動員された組織設計事務所は、デザインによって社会に貢献するという職能をみずから手放してはいないか、と指摘する。「ジョン・ハンコック・ビル」の訴訟には、デザイン性と経済性が天秤にかけられた局面があったが、日本の建築に関わる訴訟では建築家が商売人としか見られていないことを神代は嘆いている。資本原理に組織事務所が動員されることでデザインが毀損され、建築家としての主体性が危機に直面するのではないか、これが神代の主張の3つ目である。
たしかに、その後の組織設計事務所は個人名の建築家集団というよりは、組織化・会社化され、経済性と安全性の軸を担保する方向に舵を切ったように思われるので、この神代の指摘は鋭かったと言えるのではないか。林昌二にしろ池田武邦にしろ、当時は肩書きの最後に必ず「建築家」とクレジットされていた。

巨大建築論争から「渋谷ストリーム」を考える

前置きがたいへんに長くなったが、神代の主張を再度まとめると、以下の3つである。

①建築の適切な規模(コミュニティを育成する小規模建築に建築家は関わるべき)
②巨大建築のデザインの質的低下(観念的で非人間的なデザイン)
③建築家の職能と主体性(とくに組織設計事務所の主体性)

これに沿って「渋谷ストリーム」について見ていきたい。まず①について。「渋谷ストリーム」は開発案件としては巨大も巨大だが、林が「社会の要請である」と説いた巨大さは高層部が担保しており、低層部の足下の空間には小さなヒューマンスケールを実現している。こうした二層化を実現した背景には、プロジェクトの上流へのアプローチが約半世紀を経て洗練されてきたことも大きいだろう。神代の意図とは若干ずれるが、巨大建築の内部においても建築家は「小ささ」に関与できることが示されている。この巨大建築のなかに組み込まれた多目的ホール「ストリーム・ホール」の規模はスタンディング700名であり、くしくも神代がコミュニティに必要なサイズとした大きさと等しい。
②について、神代の主張は表面の素材の使われ方に集中していたが、「渋谷ストリーム」はむしろ空間構成やスケール操作においてデザインの質を担保しようとした建築と言えるだろう。
③については、この建築は東急設計コンサルタントと小嶋一浩+赤松佳珠子/CAtの共同設計であり、CAtはデザインアーキテクトとしてクレジットされている。経済性や安全性は組織設計事務所である東急設計コンサルタントが担い、空間性やデザイン性においてCAtがデザインアーキテクトの役割をいかんなく発揮するという、こちらもある意味で二層化が効果的に作用している。現代の巨大建築において、経済性も安全性も担保しながら、かつデザインで社会に貢献することは簡単ではないだろう。そこに挑むためには、組織設計事務所とアトリエ事務所がもう一度よいかたちでコラボレーションできるような枠組みが求められている。「渋谷ストリーム」はその好例となるのではないだろうか。

以上から、これまで技術と制度の水準で語られるしかなかった日本の巨大建築において、「渋谷ストリーム」は初めて建築家による空間やデザインの水準で語ることが可能な作品なのかもしれない。そうした観点からも、「渋谷ストリーム」は建築批評史的に意味をもつだろう。

いま、神代雄一郎が渋谷ストリームを見たら何と言うだろうか。高層部のファサードについては、やはり「安手だ」と言うかもしれない。

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和田隆介

1984年静岡県生まれ。明治大学大学院博士後期課程在籍。2010年千葉大学大学院修士課程修了。2010-2013年新建築社勤務、JA編集部・a+u編集部・住宅特集編集部に在籍。2013年よりフリーランス。主なプロジェクトに、『LOG/OUT magazine』(RAD、2016-)の編集・出版など。